横浜青年会議所創立70周年記念誌
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■これからどうするのか? 早い決断が必要取り戻してもらいたいという思いから、私は、横浜開ども達のために横浜開港祭をやるんだ」と伝え、横浜開■被災地支援、災害支援(宝田)3月11日、私は東京プリンスホテルで日本JCシニア倶楽部の総会に参加していました。東日本大震災の発生した後、横浜青年会議所のメンバーと連絡を取ろうとしたのですが電話は繋がらず、当時はWi︲Fiもそこまで普及していない時期だったのでSNS等で連絡を取ることもできませんでした。そのため横浜の被災状況が全く分からず、車のテレビで情報を得ようと必死でした。その後、何とかメンバー数人と連絡できたのですが、例会を開催できる状況かは把握できず、メンバーが自転車で例会会場に行き、会場担当者から中止要請を受けて、例会を中止することにしました。でも本当に大変なのは翌日以降でした。3月11日は金曜日だったのですが、土日を挟んで週が明けても余震は続いていました。メンバーの家族や会社を優先的に考えつつも、なんとか理事会を開催し、これからどうするのかを話し合いました。横浜は東北地方ほど被害を受けてはいませんでしたが、家族や会社を支えていかなくてはならないメンバーのことを考え、3月中は休会という決断をしました。3月末になり、6月に迫る横浜開港祭を開催すべきか判断する必要がありました。お祭りやイベントが軒並み中止になる状況で、3月27日、横浜開港祭協議会の臨時総会を開催し、関係諸団体の方々と話し合いました。私は、大災害の後、一番不安な思いをしているのは子ども達ではないかと思っていました。子ども達に少しでも早く普段の生活を港祭を開催したいという意見を述べさせていただきました。それに対して「よく言ってくれた」と賛同する意見をいただけたので、その日の夜、横浜開港祭室のメンバーを集めて「子港祭の開催を決断しました。(三村)2011年は横浜開港祭を赤レンガ倉庫で開催し、例年どおり花火も打ち上げたそうですね。様々な意見があったと伺っていますが、花火が上がったとき、宝田先輩はどのように感じましたか。(宝田)花火は、もともと亡くなった方の鎮魂の意味があるそうです。そこで東日本大震災で亡くなられた方の供養の意味を込めて白黒の花火を上げました。花火を上げることで、子ども達が少しでも笑顔になり、花火を見た人に心を休めてもらえたらと、ただただ願うだけでした。横浜青年会議所として何を行ったのか。(宝田)震災支援については、日本青年会議所から神奈川ブ4570th Anniversary JCI YOKOHAMA45[ 第70代理事長 ]三村悠三×

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